Announcement Date: 2014-10-07

 

この文書[=改革派の手紙]の立場が示唆している事柄のすべてについて、[それに賛同している人々が]しっかり熟考されておられるのかどうかは疑問です。が、聖書記者や聖書自身はその時代の思想や制度を反映している ―その時代の立場が誤っていたとしても― という根本的な前提がそこにはあります。ウェストミンスター信条の起草者たちも同様の扱いをされていることにも注目されたい。この手紙が提示しているのは一般的に歴史的決定論と呼ばれるものです。もし我々人間がそのような自分の文化の囚われ人であるのなら、同じことが現代の我々にも当てはめられなければなりません。現代において、我々は自分自身が今置かれた文化を反映しているはずであって、それは、過去の諸文化と同様に、たしかに過ぎ去っていくものです。更に言えば、同じ理屈がRCJのことを現代の非キリスト教的日本文化を反映しているものとして糾弾するはずです。もしも、聖霊がそのような罠を克服させてくださると我々が確信できる、と答えるならば、聖霊は聖書記者にはそのような罠を克服させなかったのにもかかわらず、我々には文化的な捕囚を免れるように助けてくださるのでしょうか?我々は聖書記者よりも優れているのでしょうか?

人々がかかる立場の論理とその彼らへの適用について見えなくなっている理由は彼ら自身が現代世界の前提に囚われているからなのです。彼らこそが、自らが聖書記者を叱責する際の問題点を示しているのです。我々は時代に同化させられているのです。現代における重大な前提の一つは、我々は啓蒙されていて、過去の人々はそうではない、というものです。 それはギリシャ悲劇のヒュブリス(すなわち、現実を無視した過剰な誇り)であり、聖書が警告するものの一つが高慢です。

男女の役割に関する新約聖書の教えがたんなる時代の反映という議論に関しては、新約聖書はその教えが習慣ではなく創造に基礎づけられていることを明言しています。だからこそ、イエス様はマタイ19:3-9で離婚について説いた際に創造のときの当初の教えに言及したのです。 同様に、パウロは第一テモテ2:12-15で女性の役割をついて説くにあたってはその立場を創造の秩序に置いたのです。

これらを踏まえますと、聖書は本件について沈黙しているという主張は事実ではありません。たしかに、パウロはその文化を反映しているとも論じ得ましょう。が、その議論はイエス様にも当てはまるということにもなります。教会史が示す悲しい事実とは、ある時点で特定の目的のために採用された誤った議論が、後代においては別の目的のために用いられてしまうということです。この手紙の論理は、現代社会の傾向と矛盾するような聖書の教えは無視してもかまわない、というものです。

更に言えば、離婚を禁じる律法は民の頑なな心のゆえに厳格には執行されなかったとイエス様が言っていることも注目すべきです。まったく同じ議論において、この手紙が言及している一夫多妻の問題も扱われています。これは時代錯誤的な判断の問題点を示すよい事例です。なぜ旧約時代の(そして新約時代における)神の国があれこれの罪や不正を取り扱うことをせず、それらを撲滅しないのかと我々は問います。その答えは、かかる国は罪人から構成されていて、罪を解説する唯一の手段はすべての罪人を殺すことなのだ、ということです。

聖書自身は、聖書記者の霊感において何が関与したのかという点において他に例を見ない見解を示しています。曰く、「聖霊に動かされた人たちが、神からのことばを語ったのだからです。」(第一ペテロ1:21) これはウェストミンスター信仰告白の1章4項にも反映しています。 神が聖書の著者である、と。

 

我々の主は、我々が裁く際には慎重に行うように説きます。というのも、我々自身に同じ基準が適用されるからです。あるクリスチャンたちが現代の奴隷制やアパルトヘイトの残忍さを認識できなかったことを我々は嘆かわしく思うでしょう。悲しい現実は、彼らが彼らを取り囲む社会の動向を受け入れてしまったということです。奴隷制とアパルトヘイトとの双方において、我々は聖書の教えのなかで無視されたものはなかったかと問わなければなりません。現代の奴隷制は、いままでも、そして、いまだに、人間たちを捕獲して売り飛ばすことです。出エジプト21:16によれば、死罪に値することです。教会を人種によって分離したアパルトヘイトは、聖書の教えを明らかに破りました。そして、もしRCJが、その置かれた社会の傾向だからといって、聖書の教えに反して女性を教会における教える役職と治める役職に按手するのであればどういうことなのでしょう。それは彼らが糾弾の対象としている人々と全く同じことをしていると言えないでしょうか?

 

私はここまで聖書的・神学的に論じてきましたが、歴史的な面についても考えたいと思います。聖書の時代において女性全体が抑圧されていたという考え方は広く受け入れられている風刺絵な描写の結果であって、丁寧な歴史的考察に基づくものではありません。もちろん、男性によって抑圧された女性は存在しました。今日でもそうであることについては、後述します。けれども、女性全体が抑圧されていたという見解は正しくありません。もっとも可能性の高い年表によるならば、族長たちの時代は古バビロンや古アッシリアと同時期です。それらの時代において、女性たちは商業において重要な役割をそれぞれの地域で担っていました。もちろん、すべての女性がそうだったと言っているのではありません。それは、現代の女性のすべてがCEO(会社の最高経営責任者)ではないのと同様です。が、それは重要な傾向でした。 ハムラビ法典には、そのような高い地位の女性を反映した法律が含まれています。

新約時代を見てみましょう。使徒言行録(使徒の働き)によると、パウロが訪問した町々のなかには貴婦人たちがおりました。(使徒13:50、使徒17:4、12)もしも女性全体が男性に残酷な方法で隷属させられていたのであれば、どうしてそのようなことがありえたのでしょう? 古代ローマの歴史を学んでいる生徒であれば、当時のローマ帝国においてユリウス・クラウディウス朝の女性たちの影響力を知っているはずでしょう。以下はあまり知られていないことですが、西暦2世紀から4世紀にかけて、シナゴーグによっては女性が代表や長老などの職に就いていた記録があります。西暦1世紀についてはそのような記録がありませんが、驚くにはあたりません。というのも、その時代のシナゴーグに関する記録は殆ど残っていないからです。しかしながら、その少し後代の資料によって、古代の女性に関する歴史的な正確さを欠いた描かれ方を正せるのです。 たしかに、これらの女性たちは、いわば上流階級の人々でした。下層階級の女性たちはそのような活躍はしていませんでした。でも、それは下層階級の男性にも言えることです。ただ、当時の女性に関してよく聞く見解に対して、論じたまでです。RCJは聖書を軽視しているだけではありません。 一般に受け入れられている通説で留まるのではなく、歴史的な考察を行う必要があります。

前述したように、聖書の時代にあって抑圧されたり不当に扱われたりした女性が存在したことは否定しません。聖書自身が様々な戒めによってそのような傾向に応答しています。どんなお題目であれ、我々の時代の社会には解放された女性たちがいて、教会もそれに倣おうというのは、たんに現代の偽善にすぎません。現代西洋社会における主な貧困の原因は離婚です。西欧社会は離婚をより簡単にしてしまい、女性の窮乏化を招いています。私は離婚を全否定しているわけではありません。聖書もそれを認める限定されたケースを示しています。が、私が指摘しているのは社会的な傾向であって、人々が古代社会では女性が抑圧されていたと論じる場合には社会的な傾向を言っているのです。今でも、何らかの形で奴隷は存在します。貧しいアジアの女性たちが約束をちらつかされて豪州へと渡り、騙されて売春宿に行きつくというような例もあります。同様のこととして、共産主義の崩壊とそれに続いた経済混乱によって、多くの東欧の女性たちは売春婦となることを強いられました。では、女性に貢献してきたと自負する西欧は、そのような悲劇に心を砕くのでしょうか? 無論、そうではありません。上流階級の女性たちは栄えて、下層階級の女性は関心の対象外というのが世の常です。

 

女性に地位を与えよと要求するのが、この偽善的な社会の圧力なのです。聖書の見解は異なっています。ですから、我々は女性への真の愛情や愛とは何であるのかを問わなければなりません。それは社会的地位の諸手続きではありません。関係における現実性です。西洋における結婚破綻の増加は、ますます愛や思いやりが少なくなっていることと、それが女性牧師を任職することでは修復できないことを示しています。聖書が告げることとは、神様は私たちが他者によく見られようとすることでは感心されないということです。神様が求められるのはみ言葉への服従です。 なぜなら、服従の心こそが本当の、取り繕ったものではない、人々への思いやりを生み出すからです。

 

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